坂尾さんからセルジオ紹介メッセージ
本作スーパーバイザーの 坂尾さんが2007年に日本盤で発売されたセルジオの『Tudo que arde, qura』に寄せたメッセージが出てきましたので再掲します。
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サンパウロで育ったボサ・ノーヴァ 坂尾英矩
ボサ・ノーヴァと言えばリオの海岸のイメージが浮かぶ。コパカバーナを中心として発展したから当然であるが、創成期には一般市民に爆発的なヒットをしたわけではない。むしろ中南米一の大都会サンパウロにおいて大きく普及したのである。その証拠にトム・ジョビン、ジョアン・ジルベルトをはじめリオのボサ・ノーヴァ・パイオニアたちは皆サンパウロへ稼ぎにやって来たのである。
1960年代前半、私はエドムンド・ピアノ・トリオのTV・TUPI番組に週一回出ていたが、従業員や出演者の溜まり場となっていたレアル・バーではリオの有名ミュージシャンたちと顔を合わせることが多かった。ボサ・ノーヴァ初期の顔ぶれの中で、リオへ引っ越さないでスターになった只一人のシンガーソングライターがセルジオ・アウグストなのである。彼はロベルト・メネスカルのグループがたむろしていたナラ・レオンのアパート一派ではなく、企業家で作詞家のルラ・フレイレのアパートに出入りしていた。ここは明け方まで人が集まるのでビニシウス・デ・モラエスが「イパネマの灯台」と呼んでいた。
常連はタンバ・トリオのベベート、ピアニストのルイス・カルロス・ヴィニャス、作曲とギターのドゥルヴァル・フェレイラ、シッコ・フェイト―ザなどの溜まり場となっていた。その中でセルジオは、いわゆるよそ者のパウリスタであるがリオのミュージシャンから一目置かれていた。何故ならば彼のギター・リズムは独特なスイング感があってホットなビートだからである。一般的ボサ・ノーヴァのパターンとなっているクールな感じとは違う強いアクセントのノリがあるのだ。
私がセルジオと会ったのは1960年代前半にサンパウロの音楽殿堂クラリッジ・ホテルのピアノ・バーであった。彼は1940年サンパウロ市生まれ、中学生の時ギターを習い始めて曲を作るようになった。専門はオスワルド・クルース大学工業化学科卒業のエンジニアである。 彼の代表的作品「Barquinho Diferente(変わった小舟)1963年」を当時のトップ・スター歌手クラウデッチ・ソアーレスが気に入って自分のアルバム(MOCAMBO LP40283-1965年)に入れたらヒットしたのである。これが縁で二人は恋仲となった。歌詞どおりに「小舟が恋を乗せて来た」となったわけである。 この曲を最初にレコーディングした日本人は渡辺貞夫である。1968年にサンパウロでブラジリアン・オクトパスと現地録音して日本コロンビアから発売された。その頃ナベサダさんはブラジル曲に詳しくない筈だからブラジル人メンバーがこの曲を推薦したのだろう。
北米でしばらく公演をしていたセルジオ・アウグストは1968年にシカゴ市から米国人のビクトリア夫人を連れてブラジルへ帰ってきた。目先がきく彼は若者のロック趣向に乗ってトロピカリアが台頭するブラジル音楽界の変化を見て、いち早く演奏生活に見切りをつけ広告業界へ転身してしまった。
サンパウロからサントス港へ下りる海岸山脈の静かな湖畔に邸宅を建てたセルジオは近所に住んでいるディック・ファーネイの家をしばしば訪問した。美声のピアノ弾き語り第一人者も時代の波にと共に仕事が無くなり、スチュワーデス出身のゼアン夫人とヒッソリ暮らしていた。北米生活が長いディックはセルジオの奥さんビクトリア夫人と英語でおしゃべりが出来るのが楽しみだった。1987年膀胱ガンで療養中のディックは付き添っていた恋女房スチュワーデスの翼に抱かれて天国へ飛び立ったのである。その後ゼアン夫人も後を追って離陸してしまった。
在サンパウロ日本国総領事館を定年退職後、ウエルカム社に入った私の所に、2004年初頭久しぶりにセルジオ・アウグストが訪れて来た。有名なライヴ・ハウス「スプレーモ・ムジカル」でギター名手ナタン・マルケスとデュエット・ショーをやるから、と招待してくれたのである。この店は小野リサもジョアン・ドナートとショーをやったことがある。何十年も聴いていないセルジオの声もギターも全然衰えていなかったのは嬉しかった。
彼は「日本のお陰でボサ・ノーヴァがリバイバルとなり、飯のたねになってきたよ」と笑った。しかしその後急にアメリカの奥さんの故郷へ移転することになり、「ではこの次は日本で会おうね」と言って去っていった。
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