セルジオと私 第5回 Willie Whopper

ブラジル側よりCD製作遅れのお詫びメッセージが届きました。ブラジルもコロナ渦で資材の調達や作業員の確保、郵送手段の混乱による様々なトラブルが発生している模様です。間もなく完成、日本に向けて発送する段取りです。ご予約された皆さまにはご迷惑をおかけしますがもう少々お待ちください。

今回はかつて日本盤がリリースされたセルジオの『Tudo Que Arde, Cura』のライナーを執筆、セルジオに来日を提言したWillieによるエッセイです。(本テキストはWillie著『Brasileiramente』(2019)で発表した原稿の転載です。)

 

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ブラジルでセルジオ・アウグストといえば著名なジャーナリストを思い浮かべる方も多いだろうが、実は同姓同名のボサノヴィスタがいる。サンパウロ出身、1960年代のボサノヴァ時代にたった 1枚だけレコードを出した幻のシンガー・ソング・ライターだ。当時のレコードはレア盤となっているし、CDすら既に入手困難で、熱心なボサノヴァ愛好家はいまもなお探しているという。

そんな知る人ぞ知るセルジオだが、2000年代に入って活動再開、2004年、実に40年振りとなる作品をリリースした。これは日本のボサノヴァ愛好家の間でも評判となり、2007年には日本盤として発売された。

それから数年後、あるブラジル人の友人のフェイスブックページにセルジオ・アウグストという名の人物がコメントしていた。顔写真を見るとあの幻のボサノヴィスタと同じ顔だ。「このコメントしているセルジオ・アウグストってあのボサノヴァの人?」とその友人のページにコメントを付けたら、友人より早くセルジオ本人から「そうだ。」とコメントが付いた。ビックリ仰天、「私は数年前に日本であなたのCDがリリースされた時に解説文を書いたんですよ。」とメッセージを送ったら、「日本で出たことは知っている。だけど印税は貰っていないけどな。」とこれまた驚きのメッセージを受け取った。その後も「ブラジルは治安が悪いので、いまは妻の生まれ故郷、アメリカのデンバーに住んでいる。」、「印税のことは会社同士の問題だから気にするな。」、「それにしても日本でボサノヴァが人気だとは驚いた。いつか日本に行ってみたいよ。」と気さくなメッセージを送ってくれる仲になった。

ちょうどその頃、ある日本人男性ボサノヴァ・シンガーからレコーディングの相談を受けた。全編リオデジャネイロ録音にしようと思ったが想像以上に経費がかかってしまうようで思案中とのことだった。「実は幻と呼ばれるボサノヴィスタがアメリカにいるんだけど。」と、セルジオの楽曲を彼に聴いてもらった。すっかり気に入った彼はセルジオにコンタクトを取り、アメリカのセルジオの自宅を訪問して一緒に録音、新作に収録した。そしてそのCDの発売記念コンサートにセルジオを日本に招いた。

初めて日本を訪れたセルジオはすっかり日本に魅了された。ボサノヴァがまだ愛聴されているということだけでなく、多くの若い演奏家がポルトガル語で歌っている事にも感銘を受けた。それからほぼ毎年自費で来日するようになり、多くの日本人演奏家やファンと交流している。

普段はアメリカに住んでいるセルジオだが、まだ多くの親戚や友人たちがサンパウロに住んでおり時々帰国しては旧交を温めている。一度だけサンパウロでセルジオと会ったことがある。ちょうど同じ時期にサンパウロに滞在している事が分かると、セルジオは「とびっきり美味しいピザ屋に招待してやる。」と連絡をくれた。

当日、タクシーでホテルまで迎えに来てくれたセルジオ、いつものようにアイロンをピシッとあてたシャツの上にセットアップのジャケットを羽織ったエレガントなスタイルだ。乗ってきたのと同じタクシーに乗り込むとセルジオはピザ屋の名前を運転手に告げた。ピザというからピッツェリア、いわゆるカジュアル形式の、日本でいうならシェーキーズあたりの雰囲気を勝手にイメージしていたのだが、実はそうではなかった。タクシーはサンパウロの中でも高級なエリア、ジャルヂンスに入り、一軒のレストランの前に着いた。

店内は白を基調としたシックな内装で、どうみてもピザ屋には見えなかった。先客達の雰囲気も品の良い老夫婦カップルや、仕事帰りのネクタイを締めたサラリーマンのグループばかりだ。テーブルに座るとガルソンがメニューを持ってきた。ガルソンとセルジオは知り合いのようで親しげに何か話している。メニューを開いて思い出した。ここサンパウロのピザ屋の多くは、第2次世界大戦前後の混乱期に移民してきたイタリア人が開いたもので、アメリカ式みたいに手で食べるものではなく、ナイフとフォークで食べるものだと。それを示すようにテーブルには既に数種類のナイフとフォークがセットアップされていた。ここで少し恥ずかしい気分になった。何故なら、Tシャツとジーンズ、スニーカーで来てしまったからだ。周りにはそんなカジュアルな格好の人は誰もいなかった。

メニューには数十種類のピザが記載されていた。セルジオにお勧めを聞いて一緒に注文した。セルジオが来ていることに気付いた他のガルソンや厨房スタッフがセルジオに次々と挨拶に来た。その度、セルジオは立ちあがって大きくアブラッソした。この店はボサノヴァの誕生とほぼ同じ1957年にオープン、セルジオも40年以上通っていてスタッフは家族のようなものだと語ってくれた。15分ほど待ってピザが届いた。想像以上に大きいし厚みもある。なにより生地の上にかかっているチーズの量が半端ない。ピザといってもこれは軽食ではなくきちんとした夕食だ。慣れない手つきで何とかナイフとフォークで切り分けて堪能した。

食後のカフェまで飲み終わるとガルソンが伝票を持ってきた。支払いの際、割り勘にしようとしたがセルジオは断じて拒否した。これ以上言うと怒らせてしまいそうだったので、恐縮しつつお言葉に甘えて御馳走になった。決して安いとは言えない金額だったがセルジオは嬉しそうに微笑んでいた。若い頃から足繁く来店していた思い出の店に、日本から来た酔狂な男を連れて行けたことに満足していたのかもしれない。

 



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