セルジオ・アウグスト バイオグラフィー その1

セルジオ・アウグスト(Sergio Augusto Sarapo)

1940年サンパウロ州サンタ・バルバラ・ド・エスチに生まれる。父はクラッシックの作曲者で父方の祖父母は二人ともピアニストだった。幼少の頃より音楽に親しみ4歳からヴァイオリンのレッスンを受け、6歳よりピアノを始めた。ギターは中学生の頃より友人の手ほどきで独学した。デビューしたばかりのジョアン・ジルベルトの歌をラジオで聴くと大きな衝撃を受け自身もボサノヴァの作曲家になることを決意する。


 

1960年代初頭、州都サンパウロに出てきたセルジオは、大学で工業化学を学ぶ傍ら、サンパウロにおけるボサノヴァの中心地であるルーズベルト公園周辺のバールやレストランにレギュラー出演。ジョニー・アルフ、ディック・ファーネイ、ワルテル・サントス、パウリーニョ・ノゲイラ、オス・トレス・モライス、ジンボ・トリオといったサンパウロ派のボサノヴィスタと交流を深める。リオの作詞家ルーラ・フレイレと親しくなるとリオのルーラの家にしばらく居候、リオのボサノヴィスタ達、特にカルロス・リラ、シコ・フェイトーザ、ドルヴァル・フェヘイラ、ルイス・カルロス・ヴィーニャス等と親交を深めた。


 

1965年、当時テレビスターだったクラウデッチ・ソアレスがセルジオの「バルキーニョ・ディフェレンチ」を録音すると大ヒット、セルジオも自身のデビュー作となる初アルバム『バルキーニョ・ディフェレンチ』 をリリースした。テアトロ・パラマウンチで開催されたボサノヴァ・コンサートに出演。


 



 

1968年、渡米し5ヵ月滞在、テレビやラジオ番組に多数出演。セルジオ・メンデスのコンサートにゲスト出演した。スチュワーデスだった米国人のヴィッキーことヴィクトリアと知り合うと交際を始め、ブラジルに連れて帰るとしばらくして結婚した。セルジオはブラジルでのボサノヴァ人気の陰りを感じ取り、ミュージシャンから裏方としての転身を果たした。音楽スタジオを経営(フィリップス・レコードと契約、チン・マイアやエリス・レジーナ、ウイルソン・シモナルといった大物アーティストのレコーディングはセルジオのスタジオで行われた。)、またテレビ・コマーシャルのBGMを多数手がけた。1994年のワールドカップの季節に放映されたブラマビールのCMはブラジルが優勝したことにより作曲者は知らなくてもほぼ全ブラジル国民が口ずさめる曲となった。(同曲のバージョン違いにジョアン・ジルベルトが歌ったボサノヴァ・ヴァージョンがある。)1980年頃にはエリス・レジーナ、セーザル・カマルゴ・マリアーノといった仲の良い友人達5人で音楽プロダクションTramaを設立。しかし1982年エリスの死によって中断した。


 




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